大日本帝国が夢みた“大東亜共栄圏”とは一体何だったのか? 太平洋戦争と東アジア情勢から見る功罪
「歴史人」こぼれ話・第39回
■企画院と商工省、軍部との三つ巴の対立
「大東亜共栄圏」設立宣言は、世界各国へ連合国への開戦を正当化すること、友好国であるドイツ、イタリアに、アジアは日本の勢力圏であると認識させることなどが当初の目的だったことから、国策でありながら抽象的な理念やスローガンが先行し、詳細な計画はまったくつくられていなかった。
政策実施に当たって、企画院と商工省などの政府内部と軍部との三つ巴の対立が激しくなったことで基本的計画である資源輸送、特に軍需物資輸送用の大型船舶を取り合う事態となった。戦線が拡大すると軍による船舶(せんぱく)の徴用が進んだため、限られた船舶を使った資源輸送に終始した。戦況が悪化した1943年以降、東南アジアからのシーレーン(海上輸送路)での制海権、制空権をほぼ失った日本軍は、当初の目的でもあった軍需物資輸送もできなくなり、継戦能力を大幅に失っていた。
■戦争遂行のための大東亜共栄圏へ
1943年5月の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」ではイギリス領マラヤとオランダ領東インドは日本領に編入することとなっていた。特にイギリス領マラヤの一部だったシンガポールは、欧州と日本を結ぶ軍事上の戦略地点でもあったため、日本への編入を見越して昭南(しょうなん)特別市と改称された。
この「大東亜政略指導大綱」にはこれらの地域を日本領とする理由が「今次戦争継続ニ於ケル重要資源ノ供給源トセム」と明記されており、しかもこれについては「当分発表セス」とされていた。大東亜政略指導大綱による日本政府の意図としては、大東亜共栄圏はあくまで日本が戦争を遂行するためのものであった。また、当時の日本の新聞・ラジオなどのマスコミは「大東亜の民族解放は民族皇化運動である」、「大東亜共栄圏の構想に於いては、個別国家の観念は許されるべきではない」などと連日記事掲載や放送をしており、アジア各国を日本の植民地化しようとしていくことが国策だったことが明確になってきた。
■日本軍占領による独立機運の高まり
日本は共栄圏内において日本語による教育や宮城遥拝(きゅうじょうようはい)の強制、神社造営、資源の収奪等をおこなったこともあり、実質的な独立を与えないまま敗戦を迎えた。一方で、日本が現地人からなる軍隊組織を創設したことが戦後の独立運動を助長した、基本的には日本はあまり良いことをしなかったとしつつも、大東亜共栄圏下で様々な施政の改善、とくに学校教育の拡充、現地語の公用語化、在来民族の高官登用などが行われたため、植民地各地域での独立後の国家成長に多大な働きをしたという見方もある。
日本の敗戦後、オランダ、イギリス、フランスなどは植民地支配を再開しようとしたが、インドネシアやインドシナ、インドなどでは日本占領下で創設された民族軍等が独立勢力として旧宗主国と戦って独立を果たすことになる。日本軍による占領をきっかけとする各民族の独立機運の高まりは、近代欧米帝国主義による植民地支配の終焉(しゅうえん)へとつながったといえよう。
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